「障害」を持ったがために、スポーツや芸術に果敢に挑戦する人がいる。
この人、もし、障害が無かったら、こんな過酷なスポーツに挑戦もしないだろうし、こんなに人を感動させないんじゃないのなかな、とパラリンピックを見て、いつも思う。
もし障害が無かったら、わざわざ、スキーをしなかっただろうな、等と思う。
障害があるからこそ、障害が無い人と同じスポーツをしたいのかな、と想像する。(これは、あくまでも、僕の感想ね。)
よく障害者の方が、たとえば、『五体不満足』の乙武 洋匡さんなどは「障害は不便だけど、不幸じゃない」と言う。
そんな言葉、きれいごとじゃないの?と思っていたが、パラリンピックの選手を見ていると、あ、この人、今、幸せだろうな、と思う。
こういう考え方ができるようになった、きっかけにNHK Eテレの「障害者バラエティ バリバラ」という番組がある。
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http://www.nhk.or.jp/baribara/僕も心の障害を持っているが、だから、きっと、こんな文章を書いている(書ける)のだ、と自覚している。
幸せかどうかは、その人の心が判断する。
その心に障害があると、なかなか、幸せだと感じられない、ことが多い。
普通の人なら、さら、と流すようなことが、僕は流せない。(この性格は息子に、もろに遺伝した。)
でも、それでは、毎日が苦痛の連続なので、とにかく、思考の悪しき流れの習慣を変えようと努力する。
それでも、僕の心は絶対に治らないんじゃないかと、何度、自暴自棄になったかしれない。
でも、とにかく、苦痛から逃れたくて、いろんなことを試した。
たとえば、「認知療法」とか「森田療法」とかね。(薬も補助的に今も使っている。)
50歳を過ぎた今、やっと、その心の悪しき習慣から脱却できて、「本当に幸せなの?」と聞かれれば、「まぁ、人生なんて、そんなもんさ」と思えるようになってきた。
長く辛い時代を過ごしてきたけれど、これだって、幸せさの一種さ、と思う。